岐阜市立黒野小学校について

学校紹介

本校は岐阜市の北西部、黒野地区に位置する岐阜市立の公立小学校です。校区には、国立大学法人岐阜大学や、岐阜市立岐阜薬科大学、私立の平成医療短期大学などが存在し、岐阜大学医学部の付属病院内には、黒野小学校の院内学級「むくのき学級」が設けられています。卒業後の就学指定中学校は、近隣に所在する岐北中学校です。

本校の歴史は古く、学制が公布された直後に設立された拡充学校や忘筌学校を前身として現在の黒野小学校に至っています。令和4年で創立150周年を迎えます。

 

黒野小学校では、子どもたちが、変化が激しく先行きが不安な将来をよりよく生き抜くことができるように、「たくましさ」を身につけさせ、未来への可能性を拡げる教育を目指しています。それは、進んで仲間と関わり合い、支え合い、主体的に学び、目標達成まで辛抱強く努力し続ける姿を通して培われるものであると考え、小学校期の教育目標としています。

また、本校はこれまで、人権教育に力を入れて教育実践を行ってきました。本校の人権教育に関わる研究実践の歴史は長く、昭和34年に研究紀要『黒野小の教育』第1号を発行してから60年以上が経ちます。その間、人権啓発の歴史的な潮流に乗りながら、先輩諸氏により精力的に研究実践が進められ、多くの成果が蓄積されてきました。こうした流れの中で培われてきた気風は、「人権尊重の気風がみなぎる学校」という言葉とともに、今もなお脈々と受け継がれています。

 

近年、校区内に所在する岐阜大学は、海外から多くの留学生を受け入れているため、その子女が本校に多く在籍しています。そのため多様な国の外国籍児童が多く、国際色が豊かな中でグローバルな視野に立って学べる環境であることも大きな特色の一つです。

 

黒野小学校で学ぶ子どもたちは皆「立派な大人になるための修行中」です。明日の世界を託す子どもたちが、未来に向かって大きく飛躍できるための「楽しい学舎」であり続けたいと願っています。

学校情報

校章


校訓

校訓「仲間と共に 自分をみがき やりぬく」

沿革

1873年(明治 6年)  御望に黒野小学校の前身となる拡充学校ができる。

1874年(明治 7年)  黒野に黒野小学校の前身となる忘筌学校ができる。

1891年(明治24年)  濃尾大震災で校舎が全壊する。

1897年(明治30年)  二つの学校が統合して、鵜飼尋常高等小学校となる。

1898年(明治31年)  現在地において黒野高等尋常小学校となる。

1899年(明治32年)  黒野尋常高等小学校の新校舎が完成する。

1903年(明治36年)  黒野尋常高等小学校の児童数643人

1921年(大正10年)  黒野尋常高等小学校の児童数743人

1941年(昭和16年)  黒野国民学校と改称する。児童数725人

1942年(昭和17年)  黒野国民学校の新校舎が完成する。

1947年(昭和22年)  黒野村立黒野小学校となる。児童数642人

1950年(昭和25年)  岐阜市立黒野小学校となる。

1977年(昭和52年)  体育館が新しくできる。児童数1300人

1981年(昭和56年)  黒野小学校の児童数1494人。

1991年(平成 3年)  運動場の改修工事を行う。

2020年(令和 2年)  黒野小学校の児童数434人。